”階段を上る” か “思い出す” 悟りへの2つのルート
世の中には、仏教の経典や哲学書を1ページも読んだことがないのに、ある日突然、世界の真理をどーん!と体験してしまう人がいます。
私はそのような体験が何度かありますが、特に大きかったのは約25年前の体験です。人生の土台(OS)がガラリと変わりました。後にヨガと出会い、哲学を学び、仏教の智慧を知ったとき、「これってあの感覚のことだな」「あれはお釈迦様のこの言葉のことだったんだ」なんて答え合わせができました。
もちろんゴールではなくひとつの大切な通過点として、ヨガや瞑想を続けるうえで指針になり、何より人生がより良く生きやすくなったきっかけです。
こうした人は結構たくさんいらっしゃると思います。
ただヨーガ・スートラにも明記されていますが、体験には脳の錯覚やエゴを肥大化する障害(魔境)の場合もあります。経典が教える本物と魔境の境界線は、「その体験によって日常の苦しみやエゴが減ったかどうか」「体験を飾りにせず ”生き方の知恵” に変えられているかどうか」です。
これは本来他人がジャッジすることなど不可能で、本人にしか分からない聖域です。
ですが本物と偽物があるばかりに、無闇に体験を(勉強熱心な)仲間に話してしまうと、激しく豹変され攻撃されることがあります。
「それは幻だ」「ただの思い込みだ」「執着だ」と人格否定まで。
こうしたお悩みをよく聞くので、今回は、体験者の道標となるように、彼らの心理を歴史と哲学から紐解き、対処法までお伝えしたいと思います。
「学ぶ」のではなく「思い出す」
【先に体験し、後から知識で答え合わせをする】
まず、このプロセスは、決して頭がおかしくなったわけでも思い込みでも幻でもありません。
偉大な先人たちが証明している『最も純粋な目覚めの形』とされています。
⚫︎ソクラテスの「想起(アナムネーシス)」
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「本当の知識とは、外部から新しく学ぶものではない。私たちの魂がもともと知っていたことを『思い出す(想起する)』ことだ」と説きました。
⚫︎お釈迦様の「古道の発見」と「仏性」
お釈迦様は悟りを開いたときに「新しい道を作ったのではない。ジャングルの奥に埋もれていた昔の道を再発見した(思い出した)だけだ」と言い残しています。また仏教では、誰もが最初から完璧なダイヤ(仏性)を心の中に持っていると説いています。
なぜ知識の人は体験者を攻撃するのか?
なぜ本をたくさん読んで勉強している人ほど、体験者を激しく否定してくるのでしょうか。
理由は、彼らの【エゴの防衛本能】と【強烈な嫉妬】です。
仏教的な思想でいうと、真理をその身で体験した人を『体得の人』、言葉や文字の表面だけに縛られている人を『随言(ずいごん)の人』と呼びます。
何年もかけて本を読み、自分なりに一生懸命修行し、「いつか真理に辿り着けるはず!」と努力しているのに、目の前に一瞬でそれを思い出してしまった人が現れると、自分の努力が無意味に思えて恐怖を感じ、劣等感や嫉妬に苛まれ、マウンティングが始まるそうです。
歴史が証明しているのは、【システム(組織や教義)を守りたい人】にとって、【ダイレクトに真理とつながってしまう個人の体験】は、コントロール不能で最も恐ろしいものだということです。
お釈迦様も仲間に攻撃された
というのも、お釈迦様も「豹変した仲間」から攻撃を受けていました。
原始仏教の経典(『聖求経』など)によると、お釈迦様がそれまでの過酷な苦行を捨て、ただ静かに座って真理を悟ったとき、それまで一緒に修行していた5人の仲間たちはその姿を見てこう言ったそうです。
「あいつは堕落した」「苦行を捨てたのに悟れるわけがない」「幻を見ているだけだ」
知識を蓄え、日々修行を必死にこなしている自分たちのプライドを守るために、お釈迦様の言葉を信じず、3度も繰り返し非難を浴びせたのです。更には命まで狙う暗殺未遂まで。
この歴史的にも根深い構図は、あらゆる業界でずっと形を変えて繰り返されています。
私の場合と「答え合わせ」
私の体験については、もし興味がありましたら記事にしていますのでご覧ください。
過去記事:https://saptaraga.com/archives/8598
こんな話…もちろん自らすすんでしませんが、この業界にいると流れで話すことになる機会があります。これまで数人に話したことがあるのですが、約1割の確率で、人は豹変します。
1番強烈に反応された件を例にしてみます。
相手は瞑想によって至る神秘体験にとてつもない憧れがあり、その流れでヨガに興味を持ち、私に教わろうと思ってくださっていた人。ひょんなことから私の過去の体験談を語ってしまった瞬間、180度、別人のように豹変しました。
まず初めに、
「いやいや幽体離脱って(笑)」
「修行してないのにそんな体験できるわけがない」
「真っ暗なところを宇宙と思い込んでるだけ」
から始まり、さらに言葉の銃弾はエスカレートしていきました。
「それって幻覚だよ?」「自分が見たいものを作り出しただけだよ?」
「あぁ一瞥体験ね、流行ってるよね、みんな体験してるよね」
「自分が特別だとでも思ってるの?」
「体験に執着しすぎ。エゴだね」
「悟りとは逆行してるね」
「その体験は捨てた方がいいと思う」
「とにかく〇〇という本を読んでみて!」「何で読んでくれないの!?」
(ある本をしつこく薦められました…)
「まだ私が言っていることが理解できないかもね、いつか気づけたらいいね」
「あなたにいい指摘ができたことを誇りに思う」
捨て台詞として、
「そのままだといつか行き詰まるだろうけど、まぁ頑張って!」
体験を捨てろ、忘れろ、エゴまみれだと一方的にまくし立てられ、さらには唐突に「あなたって〇〇だよね」という初めて聞く名のレッテルを15枚くらいペタペタ!と貼られました。
もちろん、私は大丈夫です。
昔だったら間に受けてしまったかもしれないけれど、「あぁ混乱されてるなぁ」と思うだけで今や完全にスルーできます。こんなに反応してしまうのはもう本人の問題。
でも、本当に勿体無いなと思います。
図らずも同じ探求の道にいるはずなのに。。。
例えば、体験によって知った真理のひとつ。
「過去も未来もない」「今ここが全て」という、言葉を超えた究極の寂静と至福(アーナンダ)
安心感という生易しいものではなく、ただ光としてそこに在るだけで完璧に満ち足りている、圧倒的な充足感。それは、このような表現でも語り継がれています。
【刹那生滅(せつなしょうめつ)】
「過去から未来へ時間が流れている」というのは脳が作った錯覚であり、実際は一瞬一瞬のコマ切れの「今」が超高速で連続しているだけ、という仏教哲学の世界観。まさに宇宙での体験そのもの。
【現在実有・過未無体(げんざいじつう・かみむたい)】
実在するのは現在だけで、「過去や未来には実体などどこにも無い」という事実。
【無種子(むしゅし)サマーディの一端】
ヨガの教典における、すべての知識や言葉(種子)を超えて、真理とダイレクトに一体化する最高の境地。その静寂の質感に直接触れるような体験。
【一念(いちねん)】
仏教(特に天台宗など)において、人間の意識の最小単位を指します。時間は流れているのではなく、独立した「一念」という静止画が次々に現れては消えているだけという、まさに「パラパラ漫画の1枚」の世界観。
【クシャナの連続(ヨーガ・スートラ第3章52節)】
ヨガでは、時間の最小単位を「クシャナ」と呼びます。
聖典には、「過去も未来も実在しない。あるのは独立したひとつのクシャナだけであり、その前後関係の錯覚が『時間の流れ』を作っている」と書かれています。これに集中する瞑想によって、最高の智慧が得られるとされています。
⚫︎ヨガの最高経典『ヨーガ・スートラ』では…
幽体離脱については、「(肉体を離れたり、世界の仕組みを見通すような)超常的な能力(シッディ)は、生まれつき(の身体の性質)によって、あるいは薬草、聖呪、苦行、瞑想(サマーディ)によって獲得される」(ヨーガ・スートラ第4章1節)と記されています。
※薬草については、ムリヤリ体験したとてあまり意味がないどころか、魔境に陥る行為として警告されています。
※生まれつき…これについては、「過去生において、不純物を取り除くための善いカルマや高いレベルの修行を十分に完了していたからであり、その功徳が魂に残っており、今世で発現する」と説明されています。
私の場合魂の歴史に原因があるようで「過去生の自分ナイスゥ〜!!」であり、ただの【答え合わせ】に過ぎません。そこに胡座をかかず、一生懸命修行を続けるのは同じです。でも一部の人からは、プロセスをすっ飛ばしている不届き者のように見えるかもしれないし、嫉妬や攻撃の対象にもなり得ます。
もちろん、今生で一から本を読み修行を積み、階段を一段ずつ真面目に登る人の努力や探求の道こそが、ヨガにおいては美しく尊い強固な正当ルート。つまり対立するものではなくアプローチが違うという、ただそれだけのことです。
大切な体験は血肉にする
ヨーガ・スートラでは、偽物の体験に囚われないよう注意が促されている一方で、本物の体験は「心を安定させるための素晴らしい指標(コンパス)にしなさい」とも説かれています。(第1章35節)
「あるいは、睡眠や夢(のような深い意識状態)の中で得られた『知覚(体験の記憶)』を瞑想の対象(指標)とすることによっても、心は安定する」
体験をハデな自慢話(エゴの飾り)にするのは魔境ですが、今を生きやすくするための指針にするならば、それは経典が推奨する100%正しい歩みです。
たまには苦しむこともある。それでも帰り道を知っている。
そんな術を手放す必要はないです。パタンジャリも体験を捨てろなんて一言も言っておらず、むしろ自分自身に溶け込ませるべきだと説いています。塩を水に溶かすように。塩(体験)の姿はないけれど、その水はどこを舐めても確実に塩の味がする。そんな風に、自分の血肉にするのです。
同じような立場(体得するタイプ)の方へ言えること。護身術です。
お釈迦様は、弟子や他の修行者から意地悪を言われたとき、完全無視(スルー)しました。
「贈り物は、受け取らなければ相手のもの」です。
ヨガ哲学(ヨーガ・スートラ)の第1章33節では、【不徳な人(嫉妬や悪意で攻撃してくる人)】の対処法として【捨(ウペークシャー)】を勧めています。雑音は心の中から完全にゴミ箱に捨てる(スルーする)ということです。
体験を無理に捨てる必要はなく、必死に守ることもなく、ただその確信を静かな土台にしながら、今日も一瞬一瞬を機嫌よく、淡々と、丁寧に生きるべし。
至高体験のために修行するのではなく、人生をよりよく生きるために修行するのだから。
私もその道半ばです。


